《シャクティーパットとクンダリーニ》

           

クンダリーニ・ヨーガは、インドのもっとも謎に包まれた古代科学のひとつである。

しかし最近は欧米でも身近な存在になってきている。

このクンダリーニを目醒めさせるには、いく種類かの方法がある.

そのひとつにアサーナ、プラーナーヤーマ、ムドラー、バンダの各テクニックからなるハタ・ヨーガの方法がある。

また強固な愛や帰依、信仰やマントラの持誦からなるバクティ・ヨーガの方法もある。

あるいはまた、前世で積み重ねてきた未完のサーダナ( 精神的な行 )によって、クンダリ―ニが突然目醒めてくる場合もある。

この様な場合、もしその人がクンダリーニというものに馴染みがなければ、その体験が意昧するものを取り違えてしまうことがある。

さらにまた、この目醒めが究極的に何をもたらしてくれるのかということを、自発的に探求しようとしなければ、その人は、その恩恵をうけることも、またせっかくの進歩のチャンスをも逃してしまうことになる。

グルの直接的な指導をうけないでこの覚醒を体験した人は、次第に恐怖を覚えるようになって、自分は精神病や神経症にかかったのではないかとか、悪霊に取り憑かれたのではないか、などと考えたりするようになる。

このような時、経験を積んだグルの祝福と導きこそ、このようなさまざまな状態から無事脱け出し、サマーディ ( 宇宙意識 ) を実現するための欠くべかざるものとなる。

豊富な経験を積んだグルの指導なしに、自分ひとりで強力な組織的技法を操り、クンダリー二を目醒めさせようなどと企てる人は、どんな人であろうと必ず危険な目に会わざるをえなくなるということを、いまここではっきりと指摘しておきたい。シャクティーパットというのはエネルギーの強烈な充填のようなものであるため、神経組織を強化し、浄化することが欠かせないのである。

 

グルの祝福

多くの著者が、クンダリーニ・ヨーガは危険な道程であると書いている。しかしこれは、たとえば、熟練者の指導をうけずに車を乗りまわそうとする場合でも同じことがいえるはずである。そこでクンダリーニを覚醒させるもっとも安全で、もっともすぐれた方法は、クンダリーニに精通したグルの祝福をうけることである。たとえどんな方法でシャクティーが目覚めるにしても、この道に関するかぎり、グルの祝福は絶対に必要である。

神の意志を吹き込まれると、グルは、それをうけるに足りる弟子の眠っているクンダリーニをかき立てようとする。このプロセスがシャクティーパットと呼ばれる。

プラーナを自在に統御することのできるヨーギは、自分のプラーナと自分の全存在を他人に伝違することが可能になる特定の波長のレベルまで、自分を意識的に移行することができる。このようなグルのカリスマ的で磁力的な影響力が、弟子の中の霊的な力(シャクティー)を呼び覚ますことになる。スワミ・ビシュヌ・ティルタはその著『神霊の力』の中で次のように言っている。

 


「この種の偉大な人格者たちはきわめて高い次元でプラーナと心を保持しているので、いったんシャクティーパットにとりかかると、その対象となる人物のプラーナを強引に低い次元から高い次元に引き上げてしまうことになる」と。

グルは、思いを込めた深い一瞥を与えたり、触れたり、マントラを唱えたり、あるいはたんに想念を凝らすことによって、シャクティーを弟子に転送する。

このようにしてグルは自分の聖なるエネルギーを弟子に注入し、その体内でプラーナの自由な流れを妨げている心的な障害や生理的な障害を解きほぐそうとする。

グルは精神的に飢えている自分の弟子に奉仕するために、自分の師と神に波長を合わせ、絶え間なく、そして多量のシャクティーを受け止め続ける。

キリスト教徒は聖餐式でキリストの血と肉をいただく。これは起源的には、キリストの体と一体になることを受け入れる行為である。同様にシャクティーパットの儀式においても、弟子は師と一体になり、この道を歩み統けるにしたがってますます彼の愛と信仰心は強められてゆく。

人によってはグルの書いたものを読んだだけで、あるいはグルの写真を見ただけでシャクティーパットをうける。

この聖なるエネルギーは、意識的にも、無意識的にも転送することができる。あるいは、それがどんなものであれ、グルのものにたんに触るだけでも、弟子の中には火がともり得る。キリストはこの力をもっていた。

病気だったある女は彼の後ろに近づき、その衣の端に触れた。

すると彼女はたちまち癒された。

イエスは彼女を見ていなかったが、何が起こったかは、はっきりと知っていた。

「誰かが私に触った。力が私から出て行ったのを感じたのだ。」(ルカ伝・8-46)

 

シャクティーパツト・ディークシャー

シャクティーパツト・ディークシャーが行われると、グルのアストラル体( 霊体 )は弟子のアストラル体を包み込んでゆく。そしてこれは最終的な受肉の代わりとして、二人の間に決定的なカルマ( )の結びつきを創り出す。

このときグルは弟子のカルマを引き受けることになる。

そのため弟子の進化の歩みは急速に加速されることになる.

カルマの結びつきに関するこれと同じようなプロセスは、キリストが我々の罪を負い、そして死んでいったという形でキリスト教においても表現されている。(コリント書I15-3)

しかも彼は、人間の罪を負っただけでなく、同じ様にして弟子たちに力を分け与えてもいたのである。

「聖霊をうけよ。あなたがたが許す罪は誰の罪でも許され、あなたがたが許さずにおく罪はそのまま残るであろう。」〈ヨハネ伝・20-2220.

シャクティーパットの儀式は弟子とグルの間に霊的なきずなが結ばれることであるが、弟子は直接グルと結びつくことによって、グルの師たちとも結びつくことになり、したがって彼らのエネルギーを受け続けることにもなるのである。

グルとの一体化は弟子がグルに完璧に帰依し、特殊な瞑想の形で捧げられる弟子からグルヘの愛によって成就される。

そして神聖なる愛の中でグルと弟子を結び付けたそのきずなは、弟子をしてほとんど抗いがたいほどにグルに近づかしめる。

シャクティーパットは、弟子に溢れんばかりの圧倒的な愛を体験せしめるための、その内なるドアを開ける儀式である。このような無条件の愛を体験したことのない者にとっては、これはむしろ恐ろしいほどのものでさえある。そして自分はこんな祝福をうけるほど価値ある人間ではないと、一時的にせよ、典型的なキリスト教徒の罪の意識におそわれることになる。

 

シャクティーはどのように作用するか

シャクティーパット・クンダリーニ・ヨーガは、神とグルに対する全的な帰依のヨーガである。それにはまず肉体的な存在としてのグルに帰依するのがもっともよい方法であり、そのグルを有用な中継点として利用するのがもっともよい方法である。

シャクティーパットの行われている最中や、その後で起こる諸現象は、神の力(プラーナないし精霊)へ帰依したことの証である。

この強力で神聖な力は、一度グルに祝福されて自由を許された者にとっては、常にやさしく寛大な、内なる保護者ないし教導者となる。

シャクティーパットの威力によって、及びそれに伴う求道者の自由と知識への強い希求の念によって、シャクティーは六個のチャクラ( 神経叢 )を貫きながら、脊髄の真中を走っている管( スシュムナー )の中を上昇してゆく。これがクンダリーニの覚醒として知られているものである。

クンダリーニのこの覚醒された力は、プラーナの精力によってのみ機能を果たし得ている自律神経と、心のコントロールをうけて機能している中枢神経との、この両方に影響を与えることになる。シャクティーパットの結果、体内のプラーナは、以前にもまして神経全体を激しく巡ることになる。そのためプラーナは、存在の全体的な支配者としての本来の役割を帯び始め、中枢神経もしばらくは自立的な働きをもつようになる。こうして押し上げられてきたプラーナの影響をうけて、心は、神聖なる内なる知恵の無言の傍観者になる。プラーナはいつも心の専制から解放され、浄化力として、その人の中で必要とされるどんな箇所においてもその役割を果たすようになる。

インドのもっとも古い聖典のひとつである『アタルヴァ・ヴェーダ』は「これら全てのもの( 宇宙 )はプラーナに服従し、その支配下にある。プラーナはあらゆるものの支配者であって、あらゆるものがプラーナによって支えられている。」と述べている。したがって心の防衛が解かれ、プラーナのレベルさえ向上すれば、このプラーナの神聖なる力はいつでも治癒カや浄化カを発揮し、肉体や心や精神に対してその影響力を高めることになる。

 

顕示

活性化されたプラーナ( シャクティー )が身体のなかで動き始めると、外面的にも内面的にもさまざまな変化が生み出されてくる。

生理的なレベルにおいては次のような内容を体験することになる。

すなわち熱くなったり、冷たくなったり、さまざまな種類の呼吸や、ムドラーや、バンダや、アサーナが自動的に行われたり( これらはたとえ求道者がハタ・ヨーガを知らなくても、完全な形で行われる )、笑ったり、感涙にむせび泣いたり、奇声を発したり、恐怖心を抱いたり、舌を喉の奥にまるめ込んだり、眼球を回転させたり、何もしないのに呼吸が一時的に止まったり、皮膚の下がかゆくなったり、むずむずしてきたり、あるいは恍惚と歓喜の中で歌い始めたりする。

シャクティーパットの儀式をうける幸運に恵まれていない人々は、これらの浄化のためのクリヤーや訓練を長年にわたって実行しなければならないだろう。

ただ非常に不思議なことは、入門者が、何の外的な手段を学ばなくても、内からの何かに導かれて、知らぬ間にこれらを自動的に行うようになるということである。

また一方微妙なレベルにおいては、神聖なる調べや、さまざまな楽器の音色や、マントラや、また甘く香しい味覚や香りや、神々しい光や色彩を体験することになるかもしれない。あるいはまた、これまでのいく度もの前世を思い起こしたり、詩的な閃きを吹き込まれたり、聖なる至福の感興に酔いしれたり、怖い夢を見たり、全くの沈黙を保つようになるかもしれない。しかしこれらを体験している間は、心はずっと歓喜に包まれているのである。知性的なレベルにおいては、聖典や教典の背後に隠されていた真の意味に気づいたりすることもある。また直感や霊力は、その人を聖なるものに直接触れさせ、安心と平安をもたらして目に見えない導きと守護とを感じさせることになる。

このように自動的な作用が起こってきて、自分の全存在とその機能とがプラーナのコントロール下に入るとき、神経系と内分泌系の働きが助長され、活性化されることになる。そしてこのことによって病気が取り除かれ、肉体と心が高次の意識に耐えられるようになる。そこで心は、可能なかぎり客観的な意識を保ち続けるという、一番大切な課業を修得し、当人がこの道を進んでゆくにしたがって、その客観性を保持する力はどんどん増長されてゆく。たとえ自動的であっても、不随意的であっても、シャクティーの顕示は意識的にコントロールし得るものであり、いつでも止められるものであるということを理解しておくことは大切である。このときに表出される感情や肉体の諸状態は、それがどんなに強烈な徴候を呈していても、心によって客観的に観察することができる。

求道者が自らを解放し、何ものおも恐れないかぎり、心はなすがままになる。

完璧な帰依によってシャクティーは心と肉体をすばやくかつ効果的に浄化してくれる。

この場合シャクティーとグルが霊的に求道者を守っているので、悪いことは一切起こらない。このような顕示のすべては、あくまでも浄化的な効果をもたらすために現れてくるものなのだが、しかしクンダリーニ・ヨーガについて何も知らない部外者にとっては、これらは恐ろしいもののように映るかもしれない。

シャクティーが動き始まるときの肉体的な顕示は、聖書の中の聖霊降臨祭の日の記述に正確に対応している。「突然、涼しい風が吹いてきたような音が天から起こってきて、一同が座っていた家いっぱいに響きわたった。また舌のようなものが、炎のように分かれて現れ、ひとりひとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。」( 使徒2-24 )

正しい条件さえ整っていれば、いつでも聖霊降臨教会におけるような、シャクティーパットとある程度似た体験が観察される。

またこの他にも、クンダリー二の目覚めに多少似た体験をもっている人々として、スブドの修行者たちや、クエーカー教徒たち( 彼らはもともと震える[クエイク]という意昧でこう呼ばれている )、ホーリー・ローラーたちがいる。あるいはまた、精神療法家のベッドの上や、集団的な精神療法の場や、ドラッグを経験している場などでもこれは観察される。

しかしこの種の人たちは、いつもの日常的な生活習慣に戻ってしまえば、たちまちもとの汚れや動揺に取り巻かれてしまう。これらの体系のほとんどは、求道者を一歩一歩精神的な悟りのきわみまで導いてゆくことのできる、覚醒した師によって図示されたプログラムをもっていない。もし正しく導かれなかったり、グルの祝福に守られなかったら、そのような体験はけっして彼らの真の目的に役立つことにはならない。